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影の揺らぎ ■第一章 疎開

余は汽車の窓から、次第に色濃くなる田舎の景色を眺めていた。東京で教鞭を執っていた学校を辞してから、既に一月が経つ。医者からは神経衰弱と診断され、母の故郷である K 町への疎開を勧められたのである。
駅に降り立つと、予想していた通りの閑寂さが身を包んだ。白髪まじりの髭面の男が、昔ながらの羽織姿で立っている。田島重吉である。母の手紙に依れば、かつての地主で、今も相応の権勢を保っているという。
「やあ、長谷川君。随分と痩せたねえ」
声は意外に柔らかく、眼には人懐っこい光が宿っていた。重吉は余の荷物を取り上げると、まるで軽い紙包みでも持つように、楽々と担ぎ上げた。
「お世話になります」
余は丁寧に頭を下げた。重吉は「いやいや」と手を振り、にこにこと笑いながら前を歩き出した。その後ろ姿には、何か懐かしいような、しかし同時に時代に取り残されたような影が見えた。
田島家は町はずれにあった。立派な門構えの屋敷で、庭には手入れの行き届いた松が何本も植えられている。玄関に入ると、若い女性が出迎えてくれた。田島静江である。
「お待ちしておりました」
端正な顔立ちで、しかし目元には何か物憂げな影が宿っていた。余は軽く会釈をしたが、その瞬間、彼女の眼に一瞬の輝きを見た気がした。
「静江、お茶を頼むよ」
重吉の声に、静江は黙って頷き、奥へ消えていった。その所作には都会的な洗練さが感じられ、この家の雰囲気とは些か不釣り合いにも思えた。
「さて、長谷川君」重吉は座敷に余を案内しながら言った。「ここでゆっくり療養するがいい。何も気兼ねはいらんよ」
その言葉に warmth と hospitality とを感じながら、余は何故か急に疲労を覚えた。昨夜は殆ど眠れなかったのである。東京での生活、そこで味わった挫折、そして今この場所に至るまでの経緯が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
静江が茶を運んでくる。余は礼を言って茶碗を受け取ったが、その時、彼女の袖が僅かに余の手に触れた。思いがけない温もりに、余は一瞬たじろいだ。静江は何も言わずに立ち去ったが、その後ろ姿には何か言いたげな様子が見て取れた。
「おや」と重吉が声を上げた。「清三郎が来たようだ」
縁側から、馴染みのある声が聞こえてきた。
「失礼します」
中に入ってきたのは、幼い頃からの友人、山口清三郎である。髪は七三に分け、質素な着物を着ていたが、表情には昔と変わらぬ朗らかさがあった。
「信二郎!」清三郎は嬉しそうに声を上げた。「本当に来たんだな」
「ああ」余は微笑んで答えた。「久しぶりだな、清三郎」
旧友との再会は心を和ませたが、同時に何か複雑な感情も湧き上がってきた。清三郎の眼には、かつての純真さとは異なる、何か諦めたような影が宿っているように見えたのである。
その日の夕暮れ、余は一人で庭に出た。春の風が松を揺らし、その影が地面に複雑な模様を描いていた。東京で経験した挫折、この町での新しい生活、そして今日出会った人々の表情。全てが余の心の中で、不思議な具合に混ざり合っていた。
ふと振り返ると、二階の窓に静江の姿が見えた。彼女はすぐに姿を消したが、その一瞬の眼差しが、余の心に奇妙な揺らぎを残していった。

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