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影の揺らぎ ■第二章 邂逅

K町に来て一週間が経った。余は次第にこの土地の空気に馴染みつつあった。しかし、その穏やかな日常は、ある午後の出来事によって、微かに、しかし確実な揺らぎを見せ始めた。
町の古書店で偶然出会ったのは、噂の御影蘭という女性だった。店の奥で洋書を手に取っている姿は、まるで絵画の中の人物のように不自然な美しさを湛えていた。
「ラフカディオ・ハーンをお読みになるのですか」
突然声をかけられて、余は驚いて振り向いた。彼女は『Kwaidan』を手にしていた。
「ええ」と余は答えた。「しかし、原書で読むのは難しい」
「でも、翻訳では失われてしまうものがありますわ」
その声には不思議な響きがあった。東京の上流階級のような洗練された物腰でありながら、どこか懐かしい、郷愁を誘うような温かみがあった。
「先生は、この町をどうお思いですか」
唐突な質問に、余は言葉を選びながら答えた。「静かで、落ち着ける土地です」
「本当にそう思っていらっしゃるの?」御影蘭は微笑んだ。「先生の目には、何か物足りなさそうな影が宿っているように見えますけれど」
その言葉は、余の心の奥底を覗き込むかのようであった。確かに、この一週間、表面的な平穏さの下で、何か説明のつかない焦燥感を覚えていたのである。
その夜、田島家の夕食の席で、静江が御影蘭の話を持ち出した。
「不思議な方ですわね。誰も素性を知らないのに、まるで昔からこの町にいたような…」
「うむ」重吉は箸を置いた。「あまり近づかない方がいいぞ。噂では、都会の実業家の妾だったとか」
「お父様!」静江の声が強まった。「そんな根も葉もない噂を」
重吉は黙って酒を飲んだが、その表情には珍しく険しいものがあった。
翌日、清三郎が訪ねてきた。土産に地元の菓子を持って来ていた。
「信二郎、実は相談があってね」
縁側に腰かけた清三郎は、いつもの明るさがない。
「静江さんのことなんだが…」彼は言葉を途切らせた。「重吉さんが、彼女を町の資産家に嫁がせようとしているんだ」
「なに?」
「まだ噂の段階だがね。近々、正式な話があるとか」
余は黙って庭を見つめた。折しも風が吹き、松の影が揺れている。どこかで風鈴の音が聞こえた。
「君は、静江さんのことを?」余は訊いた。
清三郎は苦笑いを浮かべた。「分かるかい? でも、僕のような者には…」
その時、廊下を通りかかった静江と目が合った。彼女は何も言わずに通り過ぎたが、その背中には何か決意めいたものが感じられた。
夕方、余は再び古書店に足を運んだ。御影蘭は、まるで待っていたかのように、同じ場所に座っていた。
「先生」彼女は微笑んだ。「人は時として、自分の心さえも見失うものですわね」
「どういう意味でしょう」
「例えば、先生は本当に療養のためにこの町に来たのですか?」
その問いは、余の胸に棘のように刺さった。東京で味わった挫折、逃げるように選んだこの地での生活。そして、次第に明らかになりつつある、この町特有の軋みの音。
御影蘭は立ち上がり、窓際に歩み寄った。夕陽に照らされた彼女の横顔は、まるで透明になりそうだった。
「時が止まったように見えるこの町も、実は確実に動いているのです」彼女は遠くを見つめながら言った。「ただ、その動きが見えない人もいれば、見たくない人もいる」
余は返す言葉を失った。その夜、寝床に入っても、彼女の言葉が耳に残り続けた。そして、静江の決意めいた背中と、清三郎の苦笑い。これらが全て、何かを指し示しているような気がして、余は長い間、眠れずにいた。

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