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影の揺らぎ ■第三章 渦中

雨の音で目が覚めた。梅雨の季節である。余は縁側に座り、濡れていく庭を眺めていた。二週間前の御影蘭との出会い以来、何かしら心が落ち着かない。それは恐らく、彼女の言葉が余の内面の闇を掻き立てたからであろう。
「先生」
背後から静江の声がした。振り返ると、彼女は雨に濡れた着物姿で立っていた。
「どうしたのです、その姿は」
「少し、散歩をしていたのです」
その言葉には明らかな嘘が含まれていた。静江の目は、何かを訴えかけるように潤んでいる。
「父が、」彼女は言葉を区切った。「私を佐伯家に嫁がせようとしているのです」
余は黙って聞いていた。清三郎から聞いた噂は、既に現実となっていたのである。
「私には、私の人生があるはず」静江の声が震えた。「東京で、もっと自由に生きられるはず」
「しかし」余は慎重に言葉を選んだ。「お父上には、お父上の考えが」
「だから先生に相談したのです」静江は一歩前に出た。「私を、東京に連れて行っていただけませんか」
その言葉は、余の心を真っ二つに引き裂いた。確かに静江の願いは理解できる。しかし、重吉への義理、そして清三郎の密かな想い。それらを踏みにじってまで、自分には何が出来るというのか。
「考えさせてください」
これほど無責任な言葉はなかった。静江は何も言わずに立ち去った。その背中は、雨に濡れてなお凛としていた。
翌日、清三郎が訪ねて来た。彼の表情には、珍しく強い決意が窺えた。
「信二郎、話がある」彼は真っ直ぐに余の目を見た。「私は、静江さんを守る覚悟が出来た」
「清三郎」
「分かっているんだ。私のような者では釣り合わないことも」彼は苦笑した。「でも、この町で静江さんを幸せにする。それが私の役目だと思うんだ」
その言葉には、都会に出られなかった男の、静かな誇りが感じられた。余は返す言葉を失った。清三郎の強さは、同時に余の弱さを照らし出すものでもあった。
その夕方、古書店で御影蘭と出会った。彼女は相変わらず、どこか現実離れした雰囲気を漂わせていた。
「先生は、逃げ続けていらっしゃるのね」
「何からですか」
「ご自身からです」御影蘭は静かに言った。「東京での挫折も、この町への疎開も、全ては先生が本当の自分と向き合うのを避けているから」
その言葉は、余の胸の奥深くを抉るようであった。確かに、大学での職を失ったのは、自分の信念を貫けなかったからだ。そして今、静江の願いに対しても、明確な答えを出せないでいる。
「私にも似たような経験があります」御影蘭は窓の外を見つめた。「でも、人は逃げ続けることは出来ない。いつかは自分自身と向き合わなければ」
その時、店の外で騒がしい声が聞こえた。着物姿の男たちが何人も走っている。
「大変です」店主が飛び込んできた。「田島さんのお嬢さんが、家を出たそうです」
余は咄嗟に立ち上がった。御影蘭は微かに首を振った。
「先生」彼女の声が余を引き留めた。「貴方は、本当に静江さんのために動くのですか?それとも、自分の贖罪のために?」
その問いは、余の足を釘付けにした。雨は、また降り始めていた。

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