町は静江の失踪で持ちきりであった。噂は瞬く間に広がり、あらぬ方向へと膨らんでいく。余は重吉の屋敷に戻ることも出来ず、宿に身を寄せていた。
「長谷川先生」
宿の廊下で声をかけられた時、余は思わず身を竦ませた。振り返ると、そこには疲れ切った様子の重吉が立っていた。
「静江のことで、話がある」
座敷に通された余は、重吉の老いた横顔を見つめた。普段の威厳は影を潜め、ただの年老いた父親の姿があった。
「実は、静江の母は」重吉は言葉を区切った。「昔、同じように家を出ようとしたことがあってな」
意外な告白であった。重吉は徐々に昔を語り始めた。明治の初め、彼もまた改革の旗手として、新しい時代を夢見た一人だったという。しかし、周囲の反発や、現実の重みの前に、その夢は次第に色褪せていった。
「妻は私の臆病さを責めた。都会へ出て、新しい生活を始めようと言った」重吉は遠くを見つめる。「だが、私には出来なかった。そして妻は…」
その先は語られなかったが、余には分かった。静江の母は、結局この町で生涯を終えたのだ。そして今、静江も同じ道を歩もうとしている。
「清三郎が、静江の居場所を知っているかもしれんと思ってな」
余は息を呑んだ。確かに、清三郎の様子は最近、どこかそわそわしていた。
宿を出た余は、まっすぐに清三郎の店に向かった。しかし、そこで目にしたのは、彼の父親の姿だった。
「清三郎なら、さっき荷物を持って出て行きましたよ」
その言葉に、余は直感的に悟った。清三郎は、静江の後を追ったのだ。
古書店に立ち寄ると、御影蘭が待っていたかのように現れた。
「先生」彼女は静かに言った。「人は時として、思いがけない選択をするものです」
「清三郎が、静江さんと」
「ええ」御影蘭は頷いた。「彼は、自分の人生を賭けることを選んだのです」
その言葉は、余の心を深く刺した。自分は何一つ賭けることが出来ない。それどころか、他人の人生に介入することさえ恐れている。
「先生は、御自身の選択に後悔はないのですか?」
御影蘭の問いは、まるで余の過去から発せられたもののように響いた。大学での挫折、同僚との軋轢、そして結局何も変えられなかった自分。全ては、この問いに集約されているような気がした。
その時、店の外で騒がしい声が聞こえた。見れば、重吉が数人の男を連れて歩いている。彼らは明らかに、静江と清三郎を追うつもりであった。
「行かれるのですか?」御影蘭が訊いた。
余は一瞬躊躇した。しかし、もう逃げるわけにはいかない。
「ええ」余は答えた。「今度は、自分の信じる道を行きます」
御影蘭は微かに微笑んだ。その表情には、何か安堵の色が浮かんでいたように見えた。
余は重吉の一行の後を追った。雨は上がり、西日が町並みを赤く染めていた。人々の噂話が、まるで波紋のように広がっている。その中心に、静江と清三郎がいる。そして余は、初めて自分の意志で、その渦中へと歩を進めていた。
影の揺らぎ ■第四章 迷走

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