余は重吉の一行と共に、町はずれの古い寺に辿り着いた。夕闇が迫る境内に、静江と清三郎の姿があった。二人は本堂の前に立ち、どこか覚悟を決めたような表情を浮かべていた。
「静江!」重吉の声が、境内に響き渡った。
静江は振り向いた。その横顔には、もはや迷いはなかった。
「お父様」彼女の声は静かだが芯が通っていた。「私は清三郎さんと生きていくつもりです」
「馬鹿な」重吉は二、三歩前に出た。「清三郎、貴様」
「重吉さん」清三郎は一歩前に出て、静江を庇うように立った。「私は、静江さんを幸せにする自信があります。この町で、私なりの方法で」
「この町で?」重吉の声が僅かに揺らいだ。
「はい。私は都会に出る決心を、とうに捨てました。でも、それは敗北ではないのです」清三郎の声には確かな重みがあった。「この町にも、新しい風は必要です。私は、商売を通じてそれを実現したいのです」
その時、御影蘭が本堂の陰から姿を現した。彼女は月明かりに照らされ、幻のように美しかった。
「田島さん」彼女は重吉に向かって言った。「貴方も昔は、同じ夢を持っていたのではありませんか」
重吉は息を呑んだ。御影蘭の言葉は、彼の心の奥底に眠る何かを呼び覚ましたようであった。
「そうだったな」重吉は遠くを見つめた。「私も若い頃は、この町を変えようと考えていた。しかし、恐れて逃げ出した。そして、お前の母さんを失望させた」
静江の目に涙が光った。
「お父様…」
「静江」重吉は疲れたように肩を落とした。「お前は、本当にそれほど清三郎のことを」
「はい」静江の返答に迷いはなかった。
重吉は長い間、二人を見つめていた。やがて、深いため息をつくと、彼は余の方を向いた。
「長谷川君、貴方はどう思われる」
余は一瞬戸惑った。しかし、もう逃げる訳にはいかない。
「重吉さん」余は言った。「私は東京で、自分の信念を曲げて失敗しました。そして、この町に逃げるように来た。しかし、清三郎は違います。彼は自分の場所に踏みとどまり、そこで戦おうとしている。それは、私には出来なかったことです」
「なるほど」重吉は静かに頷いた。
御影蘭が微かに微笑んだ。その表情には、何か達成感のようなものが窺えた。
「清三郎」重吉は声を絞り出すように言った。「静江を頼む」
その言葉に、境内全体が安堵のため息をつくかのようであった。静江は泣きながら父の元へ駆け寄り、清三郎はただ黙って深々と頭を下げた。
翌朝、余は駅に向かっていた。東京に戻る決心をしたのである。途中、古書店に立ち寄ると、既に御影蘭の姿はなかった。店主に訊ねても、彼女がいつ去ったのかは誰も知らないという。まるで、幻だったかのようだ。
汽車の窓から、次第に遠ざかるK町の風景を眺めながら、余は考えていた。御影蘭は何者だったのか。或いは、彼女は余の心が生み出した幻なのかもしれない。だが、それはもう重要ではないような気がした。
大切なのは、この町で余が見た人々の姿だ。清三郎の覚悟、静江の決意、そして重吉の変化。彼らは皆、自分なりの方法で時代と向き合っていた。
余は手帳を取り出し、文字を綴り始めた。
「人は時として、自分の心さえも見失う。しかし、それを取り戻す時、初めて本当の一歩を踏み出せるのかもしれない―」
汽車は初夏の陽光の中を、ゆっくりと走り続けていた。
影の揺らぎ ■第五章 黎明

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